判断を誤らせる「理由なき不安」

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理由もないのに不安になって失敗した――。そんな経験の一つや二つは、仕事でも恋愛でもあるのではないでしょうか。

不安はリスクをヘッジする重要な感覚ですが、今日は、前回全文を翻訳して紹介したロアルド・ダールの「オリビアの死」が読まれている背景を解説しながら、「不安のリスク」について考えます。

「ワクチンは不安だ」と思うのも「麻疹は不安だ」と思うのも、人間の心です。しかし、幼いオリビアの命を奪った麻疹よりも、麻疹を防ぐワクチンのほうが危険だと考える人がいま増えています。

最大の原因は、ワクチンの普及によって麻疹にかかる子どもが激減したことでしょう。麻疹は感染力がとても強く、かかれば今でも1000人に1人が亡くなる病気ですが、ワクチン接種率の高い国では、麻疹にかかって死んだり後遺症に苦しんだりする子どもを見ることは少なくなりました。

ディズニーランドから全米に

世界的にワクチンを危ないと考える傾向は、ここ数年で特に顕著です。2015年、アメリカでは、カリフォルニアにあるディズニーランドが舞台となって全国から遊びに来ていたワクチン未接種の子どもたちの間で広がり、全米規模の流行へと発展しました。

アメリカでは、自分が病気にかからないためではなく、他人にうつさないためという観点からワクチンが義務化されています。ワクチン接種歴を証明する書類がなければ義務教育の学校にすら行くことができません。

しかし一方で、ホームスクーリング(家庭教育)を選択することで、個人の信条に基づき「ワクチンを拒否する権利」も認められています。そのため、家庭教師をつけられるような富裕層や自然志向の家庭を中心に、ワクチンを打っていない子どもたちがたくさんいます。

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ヨーロッパでも反ワクチン感情が高まっています。今年春、WHO(世界保健機関)は接種率の低下によるヨーロッパでの麻疹流行に警告を出していました。しかし、反ワクチン運動はとどまることを知らず、4月には17人死亡と報じられていたルーマニアでは、7月11日までに31人が死亡。ほかにも、イタリア、フランス、ドイツ、ポーランド、スイス、ウクライナなど反ワクチン感情の強い国々で流行を広げ、イタリアでも2人、ポルトガルとドイツでも各1人が死亡しました。

その犠牲者のほとんどは子どもです。

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実は、反ワクチン運動による麻疹の流行は今回が初めてではありません。

ヨーロッパでは1998年、イギリス人のアンドリュー・ウェイクフィールドという当時医師だった人が、麻疹、おたふく風邪、風疹を予防する3つのワクチンを混合した「MMRワクチン」が自閉症を起こし、自閉症の子どもから麻疹のウイルスが検出されたという衝撃的な発表を行いました。その結果、世界中で接種率が下がり、イギリスでは、約1600の家族がワクチンメーカーを相手取って訴訟を起こす事態にまで発展しました。

イギリス、アメリカ、日本を含む17カ国で調査や研究を行ってもMMRワクチンと自閉症の因果関係を証明するデータは得られず、2004年、ブライアン・ディアというイギリス人新聞記者が発表内容がねつ造だったことを暴きました。ウェイクフィールドは医師免許を剥奪され、捏造論文を撤回されています。

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ところが、それから10年以上が経ってもなおウェイクフィールドは健在で、昨年「VAXXED 陰謀から破滅まで」という、反ワクチン映画を発表しました。自閉症の子どもをもつ俳優ロバート・デニーロが「VAXXED」を自身の主催する映画祭でプレミア上映すると発表し、人気トーク番組「TODAY」内で「ワクチンを推奨するCDC(米国疾病予防センター)と製薬会社は癒着しているようだ」と発言すると、くすぶっていたアメリカの反ワクチン感情に大いに油が注がれました。

ウェイクフィールドは今年1月、トランプの大統領就任式典にも招待され、世界中の医師や科学者が懸念を抱いています。

日本の反ワクチン運動は?

日本では、長年にわたって麻疹ワクチンの接種率が低く、かつては「麻疹輸出国」として世界に知られていました。2000年前後の流行でも年間20~30人の死者を出しています。しかし、小児科医を中心とした医師らの努力の結果、接種率は上昇し、2015年3月にはWHOから念願の「麻疹排除国」のお墨付きをもらいました。

不思議に思われるかもしれませんが、日本での反MMRワクチン運動はあまり大きくありません。ウェイクフィールド事件が起きるより10年以上前の1989年、MMRワクチンの製造元のひとつ阪大微生物病研究会がおたふくかぜワクチンの培養方法を無許可で変更して本当の薬害を起こし、MMRワクチンの使用を止めていたからです。

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偶然にも、本当の薬害により薬害ねつ造事件を知らない日本では、いま子宮頸がんワクチンを中心とする、未曾有の反ワクチン運動がおきています。子宮頸がんワクチンも効果と安全性が確立し、世界約130カ国で定期接種に指定されているワクチンです。

ダールの手紙にあったように、たとえ“250年に一度”だって、“チョコレートバーで窒息する確率より低く”たって、自分の子どもに起きれば1分の1。「やっぱりワクチンは不安だ!」という人もいるでしょう。

でも、胸に手を当てて考えてみてください。不安によって判断を誤り、大切な子どもが麻疹にかかれば、子どもの健康と命が戻ってくる保証はありません。失った仕事や恋と同じように。

「大丈夫?」
僕はオリビアに訊ねた。
「ものすごく眠いの」
オリビアは答えた。
それから1時間のうちにオリビアは意識不明になり、12時間のうちに死んだ。
作:ロアルド・ダール、訳:村中璃子「オリビアの死」より)

オリビアの悲劇は「理由なき不安」をマネジメントするだけで簡単に防ぐことができます。

ロアルド・ダールがオリビアを亡くした2年後、1964年に発表した児童文学『チョコレート工場の秘密』

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