いつもの「当たり前」から一歩外へ出てみよう

Photo by MARIA

普段過ごしている生活の「当たり前」は、一歩外に出ると「当たり前」じゃないこともある――。

そんなことはわかっているはずなのに、知らず知らずのうちに固定概念にとらわれてしまっていることは少なくない。そして、その固定概念もまた、自分の行動を縛る“かせ”になってしまう。

旅行では、普段と違う世界と接する機会をもつことになり、いつもの固定概念の「そと」を体感する格好の時間だ。でも、日本にいても、いろいろな価値観にふれ、異なる立場・視点で考えることは忘れずにいたい。

固定概念の一歩「そと」へ

視察旅行に行ったデンマークは「世界一幸せな国」と言われているけれど、実はうつ病を患う人が少なくないと聞いた。日本に住む私から見れば「社会保障が充実している国なのにどうして?」と思う。けれど、デンマークにはデンマークのスタンダードがあって、そのなかで苦しむ人も存在するのだ。日本のスタンダードで判断していた私は、はっとした。

考えてみれば当たり前のことだ。でも、固定概念は「固定」というぐらいで、自分で慣れた生活のなかで考えていてもなかなか気づかない。その概念の「そと」へ考えを巡らせるのはさらに難しい。旅行は、その「そと」を体感するチャンスをつくりやすい。今回の旅行で、立ち止まって自分のスタンダードを振り返ってみることの大切さに気づいた。

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固定概念から自由になることができれば、人生はより楽しく、一層豊かなものになる。自分が縛られていた固定概念を知り、「当たり前」が当たり前じゃないかもしれないことに気づくことが、日々を、周りの世界を、よりよいものにしていく第一歩になるのではないだろうか。

普段生きているのは小さな世界だ。そのことを忘れずに、日本にいても「そと」の世界を知る努力を怠らないようにしたい。いろんな人と話をして、いろんな価値観にふれて、自分の世界を広げていきたい。

幸せも“絶対”じゃない

何がスタンダードか、どういうことを幸せと思うかという価値観は、家族の中でもそれぞれ違うはず。私が考える「子どもの幸せ」は、私のスタンダードに基づく考えに過ぎない。でも、真心(まこ)は自分の幸せをどう考えるだろうか――。

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二女の真心には福山型先天性筋ジストロフィーという先天性の病気があって、自分ひとりでは歩くことができない。そのことを、家族である私たちを含めて、周囲の人は「自分で歩けなくて不便」「かわいそう」と思ってしまう。

でも、彼女にしてみれば、そもそも「自分で歩く」という選択肢がない状態が前提になっている。「歩く」という選択肢がある日忽然となくなってしまったわけではない。歩けないことを不便だと思うのは、私たちが歩けているからなのだ。

真心にしてみれば、自分ひとりで動けなくても誰かに動かしてもらえれば支障はない。車椅子があれば、それを使えば事は足りる。ただそれだけで、歩けない自分が不幸とか歩けたら幸せとか、そういうことは考えていないのではないか。「歩けることは幸せ」かもしれないが、「歩けないことは不幸」とは限らない。

幸せにも苦労にも“絶対”はない。真心の幸せは、真心の価値観が決めるものだ。いろんなスタンダードを知れば、自分がいる世界の不足だけではなく、自分がいる世界の幸せに気づくことにもなる。

対極を知って選ぶ

デンマークでは、子どものころから行動の1つひとつに選択肢が与えられ、親子であっても独立した個として「私は私、あなたはあなた」という関係が確立している。それが障害をもつ子どもであっても同じことだ。子育てについても、学校やソーシャルワーカー、友達といろんな関係者で“負荷”を分散する仕組みがある。

対して日本では、どちらかといえば自由な選択が制限される傾向にあり、人間関係においても「私は私で、あなたも私」みたいなところがある。親子関係ではそれが特に強いかもしれない。そんな日本の人間関係は、デンマークの個人主義とは対極にあるものだろう。どちらがいい・悪いではなく、どちらにもいいところがあり、よくないところがある。どうにかその間を取れないものだろうか。

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すると、デンマークの友人が、「デンマークの障害児ファミリーと日本の障害児ファミリーを子ども同士で交換できたらいいのに」と言った。「日本の親子はすごくべったりで、デンマークの親子は自立している。交換してお互いを知ったら、ほどよい加減が選べるんじゃないか」とのことだった。

日本の子どもがデンマークの自立を知ったら「意外と寂しいもんだな」と思うかもしれないし、デンマークの子どもも「何でもしてくれて助かるけどちょっとうっとうしいな」と思うかもしれない。そうした子どもの様子を見て、親も感じることがたくさんあるだろう。

お互いに“極”を知ることもまた、固定概念から自由になり、適度な頃合いをとる第一歩になるのだと思う。

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