「わがまま」と言われずにやりたいことを実現するには

Photo by MARIA

この3月、私はデンマークに2週間滞在した。目的は福祉事情の見学で、先天性の病気をもつ二女の真心(まこ)や、障害のあるお子さんをもつ親御さんをサポートするための視察旅行――というのが“大義名分”だった。でも、私の心の奥底にあった気持ちは「行きたかったから」。

夫や小さい子どもたち、しかも障害をもつ子どもを日本に残しての2週間の旅行は長い。それがたとえ意義深い旅行であったとしてもだ。実際、周囲の人からも「なんで行けたの?」とよく聞かれる。その答えは、サポーターの存在だ。

「お互い様」で背中を押す

まず、誰より強力なサポーターが夫だ。女性にとって、子どものことを頼みたい最も近しい相手であり、反面、家を空けようとするときの精神的なハードルにもなり得るキーパーソンが夫という存在だろう。その夫が、快く「行っておいで」と送り出してくれるのだ。

その背景には、「お互い様」という気持ちがある。数年前には、夫が資格取得のために会社を辞めた“恩返し”に、私を念願のフランス旅行に送り出してくれた。今回は、彼が自らやりたい道に進むための転職をした代わりに、私はデンマークへ旅行する――。そんな具合に、私たち夫婦はお互い様でやりたいことをやろうと決めている。

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傍から見れば、それは損得勘定のように見えるかもしれない。それでもいい。お互いに我慢しあって「やらない」を積み重ねあう人生よりは、損得勘定が起点でもお互いの「やりたい」を実現する道を模索するほうが、夫婦2人の人生双方にとってプラスになる。そう考えれば、“損得勘定もバッチコイ”なのだ。

そして、そんな私たち夫婦を支えてくれるのが、それぞれの両親と私の姉家族。今回の旅行も、こうしたありがたいサポーターがいてこそ実現したと心から感謝している。

「わがまま」の定義を考えてみる

そんな行動原理で動く私を「いいね」と言ってくださる人もいるけれど、わがままだと思って見ている人がいるのもわかっている。周りからの「なんで行けたの?」に、「よく行けるね」という叱責のような気持ちが含まれていたこともあった。

私自身、自分のことをわがままなんじゃないかと思ったことはこれまでに数えきれないほどあった。私ってわがままなのかな。本当のわがままって何だろう――。子どものころから何度も自分に問い続けてきた問いを、大人になった今もよく繰り返す。

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その問いに対する今の私の答えは、何か行動を起こしたいと思ったときには、必ず家族に「いいですか?」と問うこと。家族の気持ちを確認して、最終的に「いいですよ」と同意を得る。この問いかけをすることで、初めて夫や家族がサポーターになってくれて、「わがまま」から「やりたいことの実現」になるのではないかと思っている。

「わがまま」は、漢字にすると「我が儘」。「我が意のままに」「自分の思いどおりに」ということだ。その「我が意」にほかの人の意を汲むと、「わ」が「まま」じゃなくなるんじゃないだろうか。家族との対話を通して、そういうことがちょっとずつつかめてきた気がする。

バリアを低くするのは自分

今の日本では、健康な子どもを保育園に預けるのでさえ罪悪感を感じてしまう人が少なくない。母親が単身で海外に行くのは、世間的にみればものすごくハードルが高いことかもしれない。でも、そのハードルはもしかしたら自分自身がつくってしまっているものかもしれない。

世間体を保ちたい、周りからちゃんとしていると思われたい、いい母親でありたい……。そういう思いが行動の足かせになっていないだろうか。その思いの強さが、自分の気持ちを内にしまい込んでしまう壁(バリア)になっていないだろうか。自分自身でその足かせを作っているのだとしたら、あまりにも悲しい。

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周囲の人はいい評価をしてくれても、人生を一緒に背負ってくれるわけではない。自分の人生に責任を取れるのは自分だけ。誰かの表情を気にする必要があるとしたら、それは人生をともにする家族だ。その家族が同意してくれるなら「もうやっちゃえ」。私たち夫婦はそんな気持ちでいくつものバリアを壊してきた。

もちろん、家庭ごとに事情があるし、考え方が違えば許容範囲も違う。でも、最後のバリアは自分だし、そのバリアを壊して“バリアフリー”にできるのも自分だ。そのことは、頭の隅において損はないと思う。

何かちょっと行き詰まりそうなときに「自分でバリアを作ってしまっていないかな?」と振り返ってみると、突破口が見えるきっかけになるかもしれない。

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